作:あきねこ 様
その日、下校する稜太の足取りは軽やかだった。家で母の手作りケーキが待っていることを知っていたからだ。
(母さんがお菓子作ってくれるの、久しぶり!)
別に記念日というわけじゃない。母が突然そんなことを言い出したのは、きっと最近の稜太の変化に気づいたからなんだろう。
父は有名な病院に勤務する、腕のいい医者だ。元々忙しいのに最近は特に忙しくて、帰宅はできてもすぐに病院に戻るような状態が続いていた。
稜太は厳しい父の言いつけに従って早く就寝しているから、父とは顔を合わせない日々が続いている。
それが当たり前だと思っていた今まで――
けれどある日、稜太は違和感を覚えてしまった。寂しい、というのとは少し違う気がする。自分の胸に湧いた気持ちが、まだ十二歳の稜太にはうまく言葉にできなかった。父さんが嫌いなわけじゃない。それは間違いないのに。
ただ、もどかしい。
でも今日はそんな気持ちも忘れられた。母が台所に立つイメージが稜太のまぶたの裏にある。
(ケーキなんていつもは父さんが許してくれないもんね)
どんな甘いお菓子が待ってるだろう。考えると稜太の足は羽根が生えたようになる。
帰り道は一人だった。同じ学校の生徒たちはみんな迎えがくるけれど、稜太の父はそれぐらい一人でできなさいと言った。いつも父の強い言葉を押し返すように胸を張って歩く道を、今日は無邪気に、足早に進む。
声をかけられたのは、そんなときのこと。
「友貞稜太くん!」
「――え?」
稜太は何気なく振り返った。
後ろの道の角から大きな黒塗りの車が顔を出して停まっている。そこから知らない男が駆けてきた。丸顔の、人の好さそうなその男性は、青くなった顔を真剣に稜太に向けた。
「――友貞先生の息子さんだね。私は友貞先生と同じ病院に勤める鈴木という者だが」
「あ……」
稜太はたじろいだ。父は滅多に仕事仲間に稜太を会わせてくれない。どうしたらいいか分からない――ケーキのことなど吹き飛んだ稜太に、鈴木は早口で告げる。
「お父さんが病院で倒れたんだ。お母さんはもう病院に向かっている。君もすぐに来てほしい……このまま私の車で送るから」
――父さんが?
ただでさえ真っ白だった頭に、その言葉がガツンと重く叩きつけられる。
父の顔が閃くように脳裏に浮かぶ。その顔がなぜかぼやけていることに気づき、稜太は息が止まるような思いをした。父と何日も会っていなかったことを改めて思い、胸が引き絞られるように不安を訴える。
そうだ。父さんは忙しかったんだ。
ぐるぐると目が回った。父の顔を鮮明に思い出せないことが恐くてたまらなかった。一刻も早く父の顔が見たかった。鈴木に腕を取られ、放心の体で黒塗りの車に乗り込んだ。運転席にもう一人知らない男がいるのがちらと見えたけれど、一瞬で混乱した頭の中に消えていった。
鈴木が隣に座った。重いドアが閉まった。いい子だね、と囁く声が聞こえた。全ては一瞬だった。
突然襲ってきた、口を塞がれるような息苦しさ。そして得体の知れない甘い芳香――
途切れ行く意識の片隅で、ただ車が発進する音だけが、かすかに聞こえた気がした。
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