作:あきねこ 様
どこかで水の落ちる冷たい音がする。
稜太が目を醒ましたとき、そこは薄暗い小屋の中――
ひどく粗末な小屋だ。育ちのいい稜太にとって、それは見たこともない光景だった。荒々しい木目をさらす壁も、簡単に組み建てられただけにしか見えない天井も、何もかもがおもちゃのように作り物めいている。
「う……」
稜太は喉の奥でうめく。口は開くことができない――厚手のテープで乱暴に封じられているのだ。
粘着部分が唇あたりの皮膚を引きつらせ、ぴりぴりとした痛みを与えてくる。
稜太が動いたことに気づいたのだろうか、小屋の戸口に立っていた男が振り向いた。
鈴木と名乗ったあの男だ。近づいてきた鈴木のその顔を見たとき、稜太はひゅっと心臓が縮むのを感じた。
――十二年の人生で初めて見る、『悪意』の顔。
歪んだ笑みを貼り付けて、鈴木は稜太の顎をつかんで上向かせる。稜太の目をのぞきこみ、それから視線をおろして稜太の幼い体を舐めるように眺めていく。
細い椅子に縛り付けられ動けない稜太の体を。
「痛いか? 坊主」
「―――」
「動けば余計痛いぜ。無事におうちに帰りたかったら、大人しくしているんだぞ」
「んっ……んんっ……」
返事というより、ただ恐怖で喉が震えただけだ。体がガタガタと小刻みに揺れ、目のふちに涙がにじむ。
鈴木が楽しげに笑った。初めて見たときは優しげだった男が、今は悪魔の化身のようだ。
やがて払うように稜太のあごを放し、鈴木は小屋から出て行く。
少年を捕縛する椅子以外何も置かれていないがらんどうの小屋に一人残され、稜太は沁みるような寒さに身震いをした。
(ぼく……どうなったの?)
朦朧とする意識の中、ゆっくりと自分の体を見下ろして確認し、目の前が真っ暗になる。
胸は椅子の背もたれにロープでぐるぐる巻きにされている。口元のテープとともに稜太から呼吸を奪っている。稜太は初めて、人は息をしなくてはいけないことを実感した。学校でプールに入ったときでさえ、そんなことは考えなかったのに。
両足は揃えられ、足首のところでまとめてロープで縛られていた。長い白靴下がけばだった縄から肌を守ってくれていたけれど、子どもであっても稜太は男だからだろうか、容赦のない強さで締め付けられている。ずくずくとした痛みが縛られた箇所からせり上がってうずきが回り、足が自分のものではないようだ。
ガタガタと椅子を揺らしてみる。けれどうまく動いてくれない。
何もない小屋の中で一人滑稽に動く自分を思い、たまっていた涙がぽろりとこぼれる。
(誘拐……されたのかな……)
これは夢だ。そう思いたかったのに、痛みはあまりに鮮明で。
やがて稜太は、力なくうなだれた。
(きっと父さんにお金を要求するんだ)
鈴木は大人しくしていればまるで家に帰してくれるかのように言ったけれど、とうてい信じられなかった。稜太だってニュースくらい見る。恐い事件はいくらでもあることくらい知っている。
学校でもあれほど知らない人間についていくなと教わるのに、自分はなぜあのとき疑わなかったのだろう。
自分のせいで両親に迷惑がかかるのだ。母さんはめいっぱい心配する。そして、そう、きっと父さんも。
……父さんも。
(父さん)
ぽろぽろと涙があふれた。衝動のまま、しきりに椅子を動かした。どうにかして逃げ出したかった――家に帰りたかった。縄が食い込みあちこち痛んでも構わなかった。
最近顔を合わせていなかったことで抱えていたもやもや。家に帰ってこないほど父が忙しいことで、胸に感じていたほの暗い何か。
なのに今こうしていると、自分の心の中に父の記憶がたくさんあることに気づくのだ。とても優しい、温かい記憶が。
――本当に痛いのは体じゃない。
どれだけ椅子を揺らしても、何も返ってこない。どうしてもそれ以上動けない。しんと静まりかえった狭い小屋の中で稜太はただ父と母を呼び続ける。母の作ったケーキは父とともに食べないと意味がない。幼い心がそう叫ぶのに、冷たい空気は容赦なく稜太にのしかかる。もうそんな未来なんか来ないと、知らない声が囁いてくる。
いやだ、ごめんなさい、父さん、母さん――。
十二歳の絶望が、夜に沈んでいく小屋を底のない暗闇に染めていく。――
*
稜太の父は、稜太が思っていた以上に毅然とした人だった。
稜太がさらわれたと知り、迅速に警察の協力を仰いだことで、二十四時間後、稜太は無事に救い出された。
病院のベッドで久しぶりに会う父は厳しい顔をしていた。そんな表情のまま、低い声で「これからは学校に迎えを寄越す」と言って、静かに稜太の額に手を置いた。
その隣で母は泣いていた。
父の大きな手を感じながら稜太は、心地よいまどろみの中で夢を見る。甘いものに厳しい父が、やっぱり難しい顔で、稜太と一緒に母の手作りケーキを食べてくれている光景を――。
(完)
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