作:あきねこ 様
大都市の幹線道路は、深夜であろうと明るいライトに照らされる。
通り過ぎるいくつもの車――吐き出されるライト――その無機質な鮮やかさは、中の人間が仕事帰りで疲れている中年であろうと、解放された夜に自由を感じて爆走する若者であろうと、すべてを同じもののように見せて、ひとつの景色を作り出す。
外からそれを眺める者は、それらの中にある違いをいちいち考えたりはしない。だから……
――その中で何が起きていようとも、気づきはしない。
その車は、たくさんの乗用車にまぎれて爆走していた。深夜に沈む色の車だ。法定速度は過ぎていたが、誰も気にする人間などいない。
後部座席はすりガラスになっていて中がよく見えない。だが、もしもその車が停まっていて、外から注意深く観察したなら、中で複数の人間が動いていることに気づくだろう。
さらに観察のうまい人間ならば、その『動く人間』の動きが異様であることさえ分かったかもしれない。
だが現実には、それを見抜ける者はおらず、見抜ける条件も揃うことはないのだ。
そのとき、車の中はひとつの別世界であり。
またひとつの異空間なのだった。
*
勢川理人は激しく混乱していた。
いったいこの状況はなんだ――どうしてこうなった?
俺たちは、どうなろうとしている?
自分は車の後部座席にいる。それは分かる。すぐ横を見れば、親友の平瀬倫生がいる。大学でもよく一緒に行動している友人なのだから、彼が隣にいることは何もおかしくない。
おかしいのは、彼ら二人がいるのはまったく知らぬ人間の車であるということ――そして、二人が拘束されているということ。
そう、二人は拘束されているのだ。おのおの猿ぐつわを噛まされ、ロープで胴体を縛られている。両手は後ろ手に回され、こちらも何かで縛られている。両足も縛られている――足首も細めにロープで縛られているのだが、同時にもうひとつ何かで縛られている。
それが何なのか気づいたとき、理人は目を疑った。それはディスカウントショップでもよく見る結束バンドだった。DIYで使うような細いバンドで足を結束されているのだ。
目に映るそれはあまりに滑稽だった。
だが――理人はその光景に恐怖した。彼はたまたま小説で読んだことがあったのだ。その中で裏組織の人間、いわゆるやくざが人間を拘束するのに結束バンドを使う描写があった。手軽な上に頑丈で、しかも細くくいこんで、強く結束すればとても痛む。
そして、ただロープで縛るよりも、視覚的に人の尊厳を傷つける。
今、理人は小説の中での描写を思い出し――それを文字が体に染みこむかのように実感していた。
「ううっ! うううう!」
隣で倫生がしきりに呻いている。彼も理人と同様な姿にされている。細身ながらしっかり鍛えられている友の体にロープが食い込んでいるさまは、我が身の拘束以上に信じられない光景だった。倫生は決して大人しくしているタイプではない。動けば動くほど縄は食い込むというのに。
「うう、うううう!」
呼吸が苦しい。都内の名門校に通う理人たちは、学校でおおいに色んなことを学んできた。
だが猿ぐつわがこれほど苦しいものだとは学ばなかった。――
何より恐ろしかったのは、理人たちをこうして『結束』した連中は、おそらく理人たちの尊厳をわざと踏みにじろうとしたわけではないということだ。
彼らにとって、結束バンドなどというものを使ったのはごく自然のことに違いない。何しろ、彼らにとって理人たちは人間ではなく。
――商品、なのだから。
*
平瀬倫生は必死に身をよじっていた。怒りで充血した目をひたすら前に据える。
運転席にいる男に。
四十歳くらいの男だったか。少なくとも倫生の目にはそう見えた。理人と倫生の待つ待ち合わせ場所に颯爽と現われ、びしっとスーツをきこなした姿は、きびきびと仕事をこなすサラリーマン風だった。
しかし、よろしくと二人に握手を求めたその手が少しばかり異様だった。ごつごつした大きな手。サラリーマンな風貌に似合わず、妙に力仕事に慣れていそうな手。
けれどそんな人もいるだろうと、倫生の疑問はそれ以上進まなかった。
ひょっとしたら、理人は不審に思ったのかもしれない。理人は倫生よりもずっと慎重な奴だ。倫生が持ってきた今回の話も――理人はずっと首をかしげていたのだから。
『優秀で活動的な理系男子に朗報! 短時間で高時給のバイト! 君の頭脳と体力を生かせ!』
そんな求人広告を見つけたのは倫生だ。好奇心旺盛で活発、健全な大学生としては、お金はおおいに必要だったし、何より『優秀で活動的な理系男子』の言葉に惹かれてしまった。名門校の理系であり、同時にテニスサークルで日々汗を流す倫生には、まるで自分のためにある言葉のように思えたのだから。
面白い話だと思ったから、同じ大学であり同じテニスサークルに所属する理人を誘った。理人は渋った――けれど、最後には折れてついてきた。倫生が「ひとりでも絶対行ってくる」と言ったからだ。倫生ひとりで行かせるのは心配だと、優しい親友はそう思ったのだろう。
その後の申し込みの電話は倫生が行い、電話の相手の軽快な誘い文句に好感を持ってしまい、結局自分は誘い出されてしまった。
自分の人を見る目を今日ほど呪ったことはない。
待ち合わせ場所に突如現われた男たちの手際は、あまりに鮮やかだった。
まだ若いとは言え、しっかり体を鍛えた二人の男子大学生をまたたく間に拘束し、車に押し込んで車を走り出させてしまった。
その上、拘束作業は複数だったものの、最後にこの車に残ったのは運転席のひとりだけだ。つまり逃がさない自信があるのだろう。
倫生は歯がみする。布が唾液で濡れ、その感触が気持ち悪い。
あまりの興奮で当初は感じなかった痛みも、疲労するにつれてじわじわと体を這い上ってくる。
涙がにじんで、ますます男を凝視する目に力が入る。
憤りは謎の男たちに。そして、自分自身のふがいなさに。簡単に騙された。大切な友を巻き込んでしまった。
だけど――このまま終わってたまるか。
倫生はようやく隣の理人を見た。理人も体は鍛えているのだが、倫生よりも真面目な優男だから、それだけに彼が拘束されている姿は痛々しい。理人の伏せがちな横顔に、何かを考え込んでいる気配が見える。いつもこうやって、思考を巡らせている頭のいい親友。
自分の根性と、理人の頭脳があれば、逃げることだって不可能じゃないはずだ――
「ううっ! うううっ!」
理人、理人。倫生は必死で友を呼ぶ。リヒト。ドイツ語で「光」という意味だと倫生は知っている。
頼む理人、俺に答えてくれ。頼む……!
すりガラスが外の景色を隠す。車内には他に何もなく、倫生にはただ親友の横顔だけがたしかなものだ。
そして――理人がふいに、こちらを向いた。
*
――教養があり体も鍛えている東洋の若者は、高く売れる――
自分たちを拘束し終わったときに、男たちがそんなことをにやにやとしながら話していたことを、理人は聞き逃さなかった。早口の英語だったから、男たちの何人かは外国人だったのだろう。東洋人という言い方をするからには、海外に手を広げた組織に違いない。
人身売買。
知識としては知っている。けれど自分の身に降りかかると思ったことなどない。今の状況は、あまりに現実離れしすぎていた。これは夢で、じきに自分は夢から醒め、いつも通りの倫生の顔を見て、何と馬鹿馬鹿しい夢を見たのだろうと呆れて笑うのだ。きっと――。
けれど痛みと息苦しさは、理人の精神を着実にむしばんでいく。
逃げなければと思った。隣の倫生が必死に抵抗する声を聞きながら、逃げ出す方法を考えた。けれど思考よりも体が訴えた――自分たちを軽々と拘束したあの男たちの腕力を。手袋をしていたのに、ひどく熱かったあの手を。
逃げられっこないのだ。
この車の中には運転手ひとりしかいない。横からは外の景色は見えないが、前方には広い道路と他の車が映っている。たくさんの車に追い抜かされ、逆にたくさんの車を追い抜かし……スピードが出ているこの車から飛び出すのは自殺行為に等しい。
深夜の幹線道路を走る車はおのおの自由な世界にいて、誰もこちらの様子になど気を配らない。拘束を解かない限り、外に危急を報せる方法がない。
そして、拘束はどうやっても解ける気配がなかった。
理人の思考はどんどん深みにはまっていく。このまま目的地に到着するのか? 車が停まれば逃げるチャンスはあるか? しかしきっと、たくさんの組織の人間が待っているに違いないのだ。自分たちをやすやす拘束していった、慣れ切っている男たち――あんな連中を相手に、力を振り絞っても勝てるのか?
勝てる人間がいなかったからこそ、こいつらはこんな商売を続けているのではないのか?
拘束された各所の痛みの熱さとは対照的に、体の芯が冷えていく。凍っていく。足下の結束バンド。人を物としか考えていない人間たち。
自分たちは商品だ。だから必要以上に傷をつけられることはないはずだ。
けれど思い切り抵抗したらどうなる? そしてひとつでも怪我をして――商品価値がなくなったと、奴らが判断したらどうなる?
自分たちは運転手の男の素顔をはっきり見ているのだ。それは……男たちの断固たる意思を示しているのではないのか。
彼らは自分らを無事に家に帰す可能性など、ほんの1ミリも考えてなどいない。
胃が引きつった。どろどろに苦い何かが体を通っていく気がした。己に起こるかもしれない悲劇はもちろん、何より隣の親友の身に降りかかる何かが恐ろしかった。倫生はまっすぐな奴だ。今この瞬間だって必死に暴れようとしていて、その身じろぐ音が耳に届くたび、倫生の体に傷ができているのではと、理人は恐ろしいのだ。
今は大人しくしたほうがいい――伝えたくても、声が出ない。
ふと倫生の動きが止まる気配がして、理人は横を向いた。
倫生と目が合った。
涙のにじんだ燃える目は、音なく確かな言葉を理人に訴えていた。
『抵抗するんだ。二人で逃げるんだ』
その瞬間――
理人は目をそらした。
そらしてしまった。
そうして、自分でようやく認めた。恐怖。どうしようもない恐怖だ。猿ぐつわがなければ、自分の歯はガチガチ震えていたに違いない。このあと自分たちの身に起こることが、理人にはありありと想像できた。思考するためにことさら今の状況を自分に刻み込み、この先起こるたくさんの可能性を考えてしまった。だからその恐怖はとめどなくあふれ、止まってくれなかった。
しょせん自分たちは無力な子どもなのだと、認めてしまったから。
倫生の視線を感じる。見ていないのに、倫生の表情がゆがむのが分かる。理人は、ひゅ、と自分の喉が音にならない音を鳴らしたことに気づく。
とてつもない罪悪感が、理人の体を支配する。
自分はたった今、この場で一番やってはいけないことをしてしまったのだ。
*
理人が目をそらした――。
目を、そらした。
倫生の声を、拒絶した。
――光が消える。倫生の心から、力が抜ける。
そして倫生は絶望の中で気づいた。自分は……理人の協力なくしては、勇気を出すことさえできないのだと。
そうだ。無力だ。暴力を当たり前に振るう存在を前にして、人に暴力を振るうことを悪と叩き込まれた自分たちに何ができる?
最後の関所が壊れた。疲労は塊のようにのしかかり、痛みは弾けて襲いかかる。
じんじんと、体のあちこちで血液の動きを感じる。生きている――けれど生きているからこそ、消えない心。恐怖の受け皿。
倫生はうなだれた。
涙がひとつぶこぼれ落ちた。さっきからずっと泣いていた――けれどきっと今の瞬間、涙の味は変わってしまっただろう。
ぼんやりとしながら、ぐたりと体から力を抜いた。
シートに沈み込む体の重さが、ひどく邪魔くさかった。
*
目的地は港だったようだ。そこには案の定数人の男たちが待っており、車から理人と倫生の体を引きずりだす。
潮風が二人の体をなぶった。凪いだ夜の海は不気味なほど静かだ。
闇夜に、中型船がうっすらと浮かんでいる。
男たちはまさしく物のように、二人の意思を無視して船へと体を引きずっていく。
「ん~! ん~!!」
最初に大きく暴れたのは理人だった。なりふりかまわず体をよじった。恐怖への抵抗、そして大切な友人の心を裏切ってしまった自分への憤り、すべてを吐き出すように頭を激しく振った。喉が潰れんばかりに唸った。
それが届いたのか――
倫生も息を吹き返した。髪を振り乱し、噛みつかんばかりに男たちを睨み付けた。喉から声を上げた。男たちへの罵倒と、理人へ届ける祈り。
だが男たちには何も届かない。力で制圧され、舌打ちだけが少年たちの耳を叩く。
「大人しくしろよ。傷モンになられたら困るんだよ――大人しくしてたら縄を解いてやるぜ?」
圧倒的な威圧感が闇の中に漂っていた。それでも少年たちは抵抗する。拘束され思うように動かない体に、がむしゃらに思いをのせる。
密航船は目の前にあった。簡単に押し込まれる。無力。絶望の中でかすかに残っていたのは、ひとりきりではないという希望。
それが現実的には何の意味もないと分かっていても。
闇の中、それぞれ引き離されながらも。
かすかに感じる友人の気配は、あまりにも心を奮い立たせてくれたから。
「――警察だ!」
鋭い声が割り込んだのはそのとき――。
男たちの動きが止まった。その隙に、一斉にどこからか屈強な人々が躍りかかってきた。もみくちゃにされ、理人と倫生は騒乱の中でいつの間にか気を失った。
否。
二人はのちに聞かされることになる。救出され手足の拘束を解かれるなり、二人はどちらからともなくお互いを探して抱き合うと、そこでようやく安心したようにその場に崩れ落ちたということを……。
*
警察の説明によると、そもそもは倫生が理人に例のバイトの話をハイテンションでしているのを聞いていたクラスメイトがいたことが解決のきっかけだった。
クラスメイトは面白がって二人の後をつけていた。そして、二人が車に押し込まれるところを見てしまった。
一方の警察は元々人身売買組織を知っていて、逮捕のチャンスを狙っていた。そこへ学生からの通報――。
運が良かった。それはそうなのだろう。
けれど。
理人と倫生はそれについて何も語らない。全てが解決したあと、二人はお互いに顔を見合わせて、ただ笑った。
――彼らは生涯忘れることはないだろう。闇夜の中、あまりに無力だったあの時間の中で、ただ友の存在だけが希望だったあの瞬間のことを……。
END
コメント
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